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六分の一殿から近代の偉人まで
全国66か国のうち11か国の守護を兼ねた山名氏の興亡から、出石が生んだ禅僧・沢庵、初代東京帝国大学総長、そして近代の政治家まで。但馬という土地が輩出した人々をたどります。
室町から戦国へ
但馬の中世史を語るうえで欠かせないのが、守護大名・山名氏です。貞治2年(1363年)、南朝方として 戦っていた山名時氏が室町幕府に帰順し、その功により嫡男・師義に但馬守護職が与えられました。 以後、山名一族は西国を中心に守護職を広げ、最盛期には全国66か国のうち11か国の守護を兼ねるまでに 勢力を拡大。「全国の六分の一を領する」ことから「六分の一殿」と呼ばれるほどの威勢を誇りました。
足利義満による勢力削減(明徳の乱)を経てなお、山名宗全(持豊)の代に一族は勢力を回復します。 しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で西軍の総大将を務めた宗全の死後、山名氏は長い 衰退期に入りました。
出石が生んだ、二人の異才
出石が生んだ人物として全国的に名高いのが、江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう、 1573〜1645年)です。大徳寺の住職を務め、紫衣事件では幕府に抗して流罪となるなど硬骨の人として 知られ、後には徳川家光の帰依を受けて江戸に東海寺を開きました。漬物の「たくあん漬け」の名の 由来とされる説でも広く知られています。
幕末から明治にかけては、出石は学者・政治家を輩出します。加藤弘之(1836〜1916年)は明治期を 代表する政治学者・啓蒙思想家で、初代東京帝国大学総長を務めました。桜井勉(1843〜1931年)は 官僚として複数の県令(知事)を歴任し、日本の天気予報制度の創始者の一人としても知られています。 昭和期には斎藤隆夫(1870〜1949年)が衆議院議員として活躍し、軍部の政治介入を厳しく批判した いわゆる「反軍演説」(昭和15年)で知られる硬骨の政治家として、国務大臣も務めました。
豊岡が生んだ人々
豊岡(旧豊岡藩・京極家の城下町)に目を移すと、元禄赤穂事件で名高い赤穂藩家老・大石内蔵助良雄の 妻、大石りく(1669〜1736年)が豊岡藩士の家に生まれています。夫の討ち入り後、豊岡に戻って 子女を育てた後半生でも知られる人物です。
近代に入ると、豊岡は教育・土木・医学の各分野で全国に人材を送り出しました。鉱山経営や上水道 事業で知られた実業家・中江種造(1846〜1931年)、文部大臣を務め広島高等師範学校(現・広島大学) 初代校長ともなった久保田譲(1847〜1936年)、同じく文部大臣・枢密院議長・東京帝国大学総長を 歴任した浜尾新(1849〜1925年)、日本の砂防工学の基礎を築いた土木技術者・赤木正雄(1887〜1972年) などが、豊岡出身として知られています。出石出身の洋画家・伊藤清永(1911〜2001年)についても 「出石城下町」のページで紹介しています。
駆け足で辿る
南朝方から帰順した功により、嫡男・師義に但馬守護職が与えられる。
全国66か国のうち11か国の守護を兼ね、山名宗全の代に最盛期を迎える。
乱後、一族は長い衰退期へ向かう。
後の大徳寺住職。硬骨の禅僧として名高い。
有子山城落城により、山名氏嫡流の但馬支配が終わる。
出石出身。明治の啓蒙思想を代表する学者として活躍。
出石出身の代議士が帝国議会で軍部を批判し、除名処分を受ける。
肖像でたどる





※肖像は伝存する史料・写真をもとにした資料的な図版です。