トップ / 杞柳細工と豊岡鞄
柳行李から世界のかばんの町へ
『古事記』にまで遡ると伝わる柳細工の技術が、江戸期には藩の専売品となり、明治には「行李鞄」という発明を生み、現代では国内シェアの多くを占めるかばん産地へと育ちました。
1200年ともいわれる歴史
豊岡の柳細工(杞柳細工)は、伝承では『古事記』に登場する渡来神・天日槍命(あめのひぼこ)が 伝えた技術に由来するとされます。史料で確認できる範囲では、応仁記に応仁年間(1467〜1469年) 頃、出石近くの九日市(ここのかいち)で柳こおり(柳で編んだ行李の一種)が取引されていた記録が 残っており、少なくとも中世から但馬地方の特産品として流通していたことがわかります。
大きな転機は江戸時代前期に訪れます。寛文8年(1668年)、丹後国から豊岡藩に移封された 京極高盛(きょうごくたかもり)は、柳の栽培と柳製品の製造・販売を土地の産業として奨励し、 藩の独占取扱品(専売品)として保護しました。この藩政による後押しにより、柳行李は全国的な 名声を獲得していきます。
「行李」から「鞄」へ
豊岡の柳製品が単なる収納具から「かばん」へと姿を変える転機は、明治14年(1881年)に訪れます。 職人の八木長衛門(やぎちょうえもん)が、柳行李に持ち手や留め具を工夫して持ち運びしやすくした 「行李鞄」を考案したと伝えられ、これが豊岡における鞄産業のはじまりとされています。
豊岡の柳製品はその品質の高さから国際的にも評価されました。明治26年(1893年)のシカゴ万国博覧会、 明治33年(1900年)のパリ万国博覧会でそれぞれ銀賞を受賞し、日本の伝統工芸としての評価を 国際的に確立します。
柳からファイバー、プラスチックへ
昭和に入ると、豊岡の鞄産業は素材面でも革新を続けます。1936年のベルリンオリンピックでは、 日本選手団の鞄として豊岡製のファイバー鞄が採用されたと伝えられ、柳から加工しやすい新素材への 移行が進みました。戦後の1953年には改良型のファイバー鞄が登場し、生産技術の向上とあいまって、 最盛期には豊岡が国内かばん生産の実に8割前後のシェアを占めるまでに成長したといわれています。
ブランド化と、いまの豊岡鞄
2006年、兵庫県鞄工業組合が扱う「豊岡鞄」は地域団体商標として認定され、産地ブランドとしての 地位を確立しました。以後、2018年には東京・丸の内のKITTE丸の内に旗艦店をオープンするなど 都市部への展開を進め、2020年にはミラノでの展示会出展、2023年には台湾でのポップアップ ストア開催など、国際的な販路開拓にも力を入れています。
柳細工の技術から数えて1200年、鞄産業としては140年余りの歴史を持つ豊岡のものづくりは、 いまも地元の中小メーカーや職人によって支えられており、若手の「かばんIターン」で職人を 呼び込む取り組みも進められています。
駆け足で辿る
九日市での柳製の行李の取引が記録に残る、確認できる最古級の記録。
京極高盛が柳の栽培・製造・販売を奨励し、藩の独占取扱品とする。
柳行李に持ち手をつけた鞄が生まれ、豊岡の鞄産業がはじまる。
柳製品が国際的な評価を獲得する。
豊岡製ファイバー鞄が日本選手団に採用されたと伝わる。
戦後の技術革新により生産量が拡大していく。
兵庫県鞄工業組合が産地ブランドとしての地位を確立。
KITTE丸の内出店、ミラノ展示会、台湾ポップアップなどを展開。
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