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但馬唯一の城下町
戦国大名・山名氏の居城が落ち、小出氏が平城を築き、仙石氏がそばと騒動を持ち込んだ――。人口1万に満たない小さな城下町に幾重にも積み重なった歴史を読み解きます。
山城から平城へ
出石の歴史は、山名氏の居城であった有子山城の落城から始まります。天正8年(1580年)、羽柴秀吉による 但馬攻めによって山名祐豊の籠る有子山城は攻略され、南北朝期以来この地を支配してきた名門・山名氏は 但馬における支配を終えました。山上の城は険しく実用に不便であったため、江戸時代に入ると麓に平城を 築く動きが進みます。
慶長9年(1604年)、外様大名の小出吉英(こいでよしふさ)が有子山城の南麓に新たに出石城を築城し、 あわせて城下町の町割りを定めました。碁盤の目状に区画された町人地・侍屋敷・寺町の配置は、 このときの計画がもとになっています。小出氏はその後改易となり、代わって信濃国上田藩から 仙石政明(せんごくまさあきら)が入封。以後、仙石氏の城下町として出石は発展していきます。
江戸三大お家騒動のひとつ
仙石氏の時代、出石藩は江戸後期を揺るがす大事件の舞台となります。仙石家の家督相続と藩政をめぐる 内紛「仙石騒動」は、赤穂事件(忠臣蔵)、加賀騒動と並んで「江戸三大お家騒動」の一つに数えられる 大事件で、幕府の裁定にまで発展し藩は大幅な減封処分を受けました。
一方で、仙石氏の但馬入封は出石の食文化にも大きな足跡を残しています。宝永3年(1706年)、 信濃国上田藩から但馬国出石藩へ移封となった仙石政明が、信州のそば職人を伴って国入りしたことが、 「出石そば」の起源と伝えられています。詳しくは「食文化」のページで紹介しますが、 一人の大名の国替えが、300年以上続く郷土食のルーツになったという点は、出石という町の性格を よく表しています。
大火からの復興
出石の町並みが「小京都」と呼ばれるほどよく保存されているのには、皮肉にも一度町の大半を焼失した 経験が関係しています。明治9年(1876年)に発生した大火では、町の建造物の8割以上が焼失したと 伝えられます。しかしその後の復興では、文化7年(1810年)の絵図に基づく江戸期そのままの町割りを 踏襲したうえで、明治期の様式による寺院・町家が建てられました。結果として、区画は近世、 建物は明治という独特の歴史的景観が形成されたのです。
この町並みは昭和62年(1987年)に兵庫県指定の景観形成地区となり、平成19年(2007年)には 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
町のシンボルと近代建築
出石のシンボルといえば、まず名前が挙がるのが「辰鼓楼(しんころう)」です。明治4年(1871年)、 旧三の丸大手門の脇に、藩士の登城の合図として太鼓を鳴らすための櫓として建てられました。 その後明治14年(1881年)、地元の医師が大時計を寄贈したことで大時計台となり、現存する日本最古級の 時計台の一つとして親しまれています。もともとの用途(太鼓)と、後に加わった用途(時計)が 積み重なっているという成り立ち自体が、出石という町の歴史の重なり方を象徴しています。
明治時代の学制発布後まもなく建てられた擬洋風建築の旧宝小学校校舎、そして出石町出身の洋画家・ 伊藤清永の作品を展示する豊岡市立美術館(伊藤清永記念館)も、近代の出石を語るうえで欠かせません。 伊藤清永は裸婦像を数多く手がけた画家として知られ、文化功労者にも顕彰されています。
駆け足で辿る
羽柴秀吉の但馬攻めにより、山名祐豊の籠る山城が攻略される。
有子山南麓に平城を築き、城下町の町割りを策定。
信濃上田藩からの国替えで信州そば職人が同行したと伝わる。
文化7年の絵図に基づく区画が、ほぼそのまま現存する。
当初は太鼓を鳴らすための櫓として建設。
町の建造物の大半が焼失するが、江戸期の町割りを踏襲して復興。
地元医師の寄贈により、太鼓の櫓が時計台へと姿を変える。
国の選定を受け、城下町の景観保存がさらに強化される。
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